親子のためのマインドフルネス~今、この瞬間に目を向けるということ~

前回はマインドフルペアレンティングがどのようなものなのかについて紹介しました。

マインドフルペアレンティングは子育てをしている母親、父親の心の在り方についても目を向け、より良い子育てへとつなげようというプログラムであり、自分自身を労わるという事でもあります。

どのように自分自身を労わるのかについて、セミナーで紹介された2つのことが印象に残っています。

まず1つめに【自分自身の親になる】という項目です。

これは育児において子供をケアする前に、セルフケアとセルフコンパッション(自分を思いやり、慈しみ、愛する事)が大切という内容でした。

自分に無限の愛を注ぎ満たされたとき、自分自身の持っている価値だけで判断せず目の前にいる子供のありのままを受け入れることへとつながります。

その上で親は子供が本来持っている特質・性質を見出し、目の前の今この瞬間の成長に喜ぶ事が出来るようになるのではないでしょうか。

もう1つは【決裂と修復】という項目です。

子育てをしていると時には子供と喧嘩をし、必要以上に大声で怒ってしまう事もあります。しかしそうした喧嘩の後には修復が必要です。でもこの関係の修復ってなかなか難しいときがありますよね。

私にも経験がありますが、親が子供に謝る時「ごめんね」と謝ることが出来たとしても、「…でも」と続きがちです。

1つの方法としてこの「…でも」を使わないようにすることが大事です。そのためには「自分のエゴを手放すことだ。」とスーザンが話をしていましたが、これもまずは「今、その瞬間の自分の気持ち・感情に気付く事」から始まるのだと思います。

自分に寄り添い、自分を許し思いやり、心を静め素直に謝る。

心穏やかに育児していく上で、また、子供とより良い関係性を築くためにマインドフルネスを取り入れる事は有効なのだと思います。

また、ADHDや自閉症スペクトラムの子どもたちと親のための『マイマインド』というプロブラムがあります。

それは親が注意を向けるようになることで、子供たちも注意を向けられるようになるという内容でした。

マインドフルペアレンティングの説明の中にもあったのですが、子ども自身が注意を払えるようになるには、親がいかに子どもに注意を払うかが大きく影響している、ということのようでした。

例えば子どもが「これ見て!」と注意を引こうとする事はよくあると思いますが、この時親が一緒に注意を向ける事で子供は「私は注意を向けられる大切な存在だ」と認識します。

このプログラムではこうした注意の向け方にも着目することで親子関係を強化し、より良く育児をすることが出来るようになる、ということでした。今回はあまり詳しくい紹介されていなかったのでそのプログラムについて深く知ることはできませんでした。 

最後にセミナーの中でビデオが紹介されました。

その映像の中の男の子が言っていた言葉がこのプロブラムの効果を物語っていた気がしたので紹介します。

彼は「以前は頭の中がこんな感じ!(と言いながら机をペンや手で叩いている)でも今はこう!(机を叩いていない静か)他の人から見たら分からないかもしれないけれど、僕の中では全然違うの。すごくいい感じ!!」

残念ながらまだマインドフルペアレンティングのプログラムは日本では行われていません。ですがこれから翻訳され、本やプログラムを提供していく予定(時期は未定)との事ですのでとても楽しみです。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話④~あっちむいてホイでちょっと一息~

ごっこ遊びにものすごく熱を込めてしまったので閑話休題、あっち向いてホイについて考えてみることにしました。

ところであっち向いてホイって元々は祇園の遊びだったとはいえその後桂三枝によって初めに紹介されたらしく、その後萩本欽一が「スター誕生!」の審査決定までの場つなぎとして遊んでいたことがきっかけで広く遊ばれるようになったんだとか。

年代にすると1972年。なんとつい最近広まった遊びだったんですね。

ところであっち向いてホイはじゃんけんして勝った側が負けた側に対して「あっち向いてホイ」の掛け声とともに負けた側に向けた指を上下左右に向け、同じ方向を向いたら指をさした側の勝ち。違う方向を向いたらじゃんけんに負けた方はセーフ。という遊びです。

どうしてあんなに何度も行われるのか、そしてどうしてこんなにも流行ったのかを考えてみることにしました。

その中で遊びの中の緊張感、という点に注目してみるとそのヒントがありましたね。

これまでの紹介してきた遊びは体を使って相手を追いかける、追いかけられる衝動性とか、演じることによって社会を構築しようとする前提となっているとか考えてきましたが、あっち向いてホイについてはこれまでにない緊張感があるのですよ。

緊張感と集中は紙一重だと思うのですが、この緊張感がどうして生まれるのかというと

「駆け引き」ですかね。←でもココ、男性と女性だと認識が違うように思えます。

男性的な発想では駆け引きを楽しんでいると思うのですが、女性的な発想ではその場の盛り上がりを楽しんでいるので駆け引きの要素は女性に比べて男性の方が高い気がするんですよね。

この点については根拠もないのでこれ以上論じることはできませんが、でも駆け引きをシンプルに楽しめるという点では最適な遊びですよね。

緊張感は一種の不安感でもあるので、その後に起こりうることを回避したいがために生まれる感覚なのかなと。緊張感がある状態というのは常にリスクをはらんでいる状態なので、そうした緊張感への耐性を高めるためには良い遊びだと思います。

考えてみたらこの緊張感に耐えられないお子さんは結構いるんですよね。

緊張する→集中する→耐えがたさ となったときに分泌される物質の量が問題なのでしょうか。

一種の不安感に対する対処法を得る、という点ではヒントがありそうなのであっち向いてホイについて考えてみました。

掘れば掘るほど様々な側面が見えてくるのは、考察のだいご味かもしれませんね。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話③~ごっこ遊びと個性誕生~

  • ごっこ遊びはそれぞれが構築した世界観のすり合わせ
  • お披露目の場としてのごっこ遊び
  • 上下関係はごっこ遊びを通して強化されるべきかどうか
  • ごっこ遊びと個性の誕生

ごっこ遊びはそれぞれが構築した世界観のすり合わせ

ごっこ遊びに至るまでを力説してまいりましたが、いよいよごっこ遊びも最終章です。

ひとまず前回のおさらいをすると、なりきりとごっこ遊びには違いがあります。

なりきりは基本的に1人が誰かになることです。したがってなりきった様が他者から見てどうであるとかこうであるとか、そういったことがないんですよね。

一方でごっこ遊びは他者がいないと成立しません。

このときの他者とは人に限りません。例えば動物(ペット)を友達に見立てて遊んだり人形を悪者に見立てたりと、要は自分が演じている誰かの他に、世界を持つ誰か(何か)がいれば良いのです。

これが人間同士であれば、ごっこ遊びの場は「僕の作った世界とあなたの作った世界と合わせてみようね。」ということを実践する場になるんですね。

あ、ちなみにごっこ遊びを人形やおもちゃで延々と続けられる子たちの頭の中は、常にその子の思惑通りではないと思います。

むしろその逆で「自ら逆境や反発、『こうしたら幸せなのに』という状況からの逸脱」を望むので延々と続けられるのではないか、と思います。

男の子がわかりやすいかもしれませんのでパターンを2つに分けてみます。

<パターン1>ゴール思考型

シンプルに「ヒーローになる!」という目的がはっきりしているので、ヒーローになるための困難をあまり想定しません。したがって目的が達成されれば終了するので人形などを使った遊びは向かないように思います。むしろ何度もヒーローになる感覚を得るためにごっこ遊びを繰り返すかもしれません。

<パターン2>ストーリー思考型

反対に「ヒーローになりたいけど・・・」みたいな子だったら、「自分はヒーローの器じゃない。」とか「ヒーローってこんなのじゃないよ!」みたいに行ったり来たりするのでストーリーがスムーズに運びません。だから人形などを使って遊んでいても二転三転が当たり前なので飽きないのではないかと考えています。その代わり自分が納得するエンディングというのが分からないのでごっこ遊びに終わりが見えません。

(皆さんはどちらですか?)

お披露目の場としてのごっこ遊び

こうした視点も子どもに対するアプローチを変えるために必要な視点ではあると思いますが、どちらであってもごっこ遊びはそれまで自分が構築してきた世界のお披露目の場であり、それを擦りあわせることによって自分の世界を新しく再構築しようとします。

するとごっこ遊びにとって「互いの世界を接触させて融合させていこうとする試行錯誤」は必要不可欠なので、安易に単一の世界に持っていくのはNGになるのですね。一方には自己の世界が正しいと思わせ、一方には自己の世界の失敗を認めさせることになるから。もちろん暴力はNGですが、これについても安易に「たたいたから悪い!」と決めつけてはならない理由がここにありました(発見)。

上下関係はごっこ遊びを通して強化されるべきかどうか

ちょっと話がそれますが、ごっこ遊びは他者が存在するのでこの時「子供同士の間で上下関係が発生する」ことになります。出生時期、体格差、言語活動量、表情など、上下関係を生み出す要因は様々なので一概に「こうである」ということは難しいのですが、ごっこ遊びに限らず遊びにおいて上下関係があらわれるのは自然なことかなと思います。ヒーローになりたい子が「僕がヒーローになる!」と発言し、体格が良く言葉の数も多かったら大体他の子が怖気づいてしまいますからね。

ごっこ遊びを通じて上下関係は強化されるべきではない、と思いますが、これまでの理屈からすると単に「みんな平等だから!」というのも彼らにとっては不自然な話なので、上下関係をつけるなら良い結末に導くよう働きかけるべきだと思います。

良い結末とは何か。「みんな仲良し。」ではなくて「あなたはヒーローになったのだから、ヒーローとして果たすべき務めがある。」「悪者の役を引き受けてくれたあなたは影のヒーローだ。次は本物のヒーローの番だね。」といったように(大人のセンスが問われる)。

ここまでシンプルではないと思いますが、ごっこ遊びは他者との世界観のすり合わせの場であると考えれば、大人の知恵が働きかけるのはごっこ遊びを同質にするようにではなく、ごっこ遊びを通してそれぞれが演じた役割に対して肯定的、そして自律的に声掛けを行うことでしょう。

ここに「大人の共感した振る舞い」ということが生まれてくると思うんですけど、両者の世界について「Win-Win」の状況に持ち込めるかというのはやはり重要なんですよね。その前提として両者の世界を認めることから始めなければならない。その上で2人がそれぞれに試行錯誤して作り上げた社会観を融合させる。

これ、大人の世界でいうところの「他者理解」ということですよね。

彼らは彼らなりの世界を、社会構築しようとしているのであって、その世界がどのような世界か、どのような世界になっていくのかを観察してみる。これはとても面白いと思います。


ごっこ遊びと個性の誕生

 さて、他者がそこに存在するようになったということは別々の人格を持った者同士が、それぞれの世界観を融合させていく力が生まれます。

 このときはじめて個性という観念が生まれんですね。なぜそれが個性につながるかというと、個性とは他者の存在と相対的に見たときに初めて誕生するものだからです。

対大人に見せていた表情とは違った表情を見せるということは、大人が客観的に子どもが社会に対してどのようにアプローチしているのかを見ることになります。彼らはそれぞれが構築した世界をすり合わせているので、そのときおのずとこれまでに培ってきた思考、方法、関りを表現することになります。これって、個性ですよね。

 ただし常にその子の本来の姿が発揮されているわけではありません。上下関係によって抑圧されることがあるからですね。だから一場面を切り取って「こういう子だ!」と決めつけることはできないけど、複数の関係の在り方を眺めれば次第に見えてくるのではないか、と思います。

単にその子だけを見ずに、複数の関係の中からその子を見ることができるごっこ遊びはその子が個性を発揮する場としても、その子の内的力と外的力との差に気づくという点でも最良の遊びなんじゃないかと思うのです。そうするとごっこ遊びがただならぬ可能性を秘めているということに気づきました(部分的にごっこ遊びじゃなくても良さそうですね)。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話③~ごっこ遊び「自分再発見、なりきり」~

昨日は授業が2件ありうち1件が受験対策、その後事務作業を行いつつなりきりについて書いていたらそのまま精魂尽き果てました。

気を引き締め直してごっこ遊びのステップ3「なりきり」について考察してみようと思います。

➀なりきりは完全に「その人」となり「それ」となる

まずはじめに「模倣となりきりはどう違うのか」ということなのですが、模倣はあくまで「まねて習う」ことです。振る舞いを真似ることはあっても同化するわけではないのですね。

一方なりきるというのは「自分を変化させて別の存在となる」ことです。
話し方、動き方といった行動のみならず感情の動きや考え、そしてそこに見られる人格を取り込み自分とは違う他者になることを指します。

➁なりきり遊びは自分再構成の段階

なりきることがどうして社会構成のための試行錯誤につながるかというと、そもそも模倣することで社会的な振る舞いをゲットしようとしたところに端を欲します。

続いて見立てることを行って自分なりに社会を(仮に大人が夢の世界と言おうと)構築しようとします。

どんな社会が良いのか、世界とはこういうものだろうと目星をつけて「じゃあその世界を得るためにはこれが必要だ!」みたいになったとき、外の世界の対象を自分に取り入れなければならない対象として判断された場合に、なりきることで自分に融合させようとしているのですね。

③なぜごっこ遊びの前段階に置かれるのか

なぜなりきりがごっこ遊びに優先するかと言うとですね。

なりきりは1人で行われるけど、ごっこ遊びは人形やその他に他者を投影していたとしても、また複数で行っていたとしても他者が存在するからです。

例えばおままごとはより現実に近いのですが、現実とはちょっと違う。

中には現実を投影させすぎてて保護者が恥をかくことも大いにありますけど、でもそのときの幼児って自分が作り上げた世界の中で自分を変容させ、もはや「それは誰かを演じている」を通り越して「その人」なのです。

それを「子供の発想ってかわいい。」という言葉で片づけるのはもったいない。

なりきりやごっこ遊びは「社会性を身に着けるための訓練」とか「創造性を育くむ重要な時期」という言葉で終わらせてしまうのではなく、彼らがなりきりやごっこ遊びを通じていかに社会を、世界を変容させているかという観点から見た方が良いのですよ。

世界の中心はあくまで彼ら、彼女らなのですから。

④なりきり遊びが働きかける4つの感情

なりきりが行われるのは感情について働きかけられたときで、かつ取り入れなければならないと判断されたときです。

大まかに以下の4つのいずれかに働きかけられたときになりきりが行われます。

1.安心感に働きかけられたとき(生存、安定)

2.恐怖に働きかけられたとき(死、危険)

3.好奇心に働きかけられたとき(成長、まい進)

4.悲哀に働きかけられたとき(停滞、衰退)

「最近の子は大人びたことをいうのね。」なんてありますけど、これは子どもを取りまく環境が変化したから吸収する内容も変わったわけですよ。キッチンや大人の会話が身近になったのはここ最近の話ですからね。

最近の子の成長が早いのではなく、元々持っていた学習能力がより生活体験や感情と結びついて発揮されていると捉えた方が良いのではと思います。

⑤なりきり遊びからごっこ遊びへ

さて、いよいよごっこ遊びに近づいてきましたね。

なりきりを経て他者の視点を自分の中に置き「世の中ってこんな感じ!」みたいなことを身に着けた乳幼児たちは、それを今度は現実の他者とぶつけてみて試行錯誤していきます。このとき1つのシチュエーションを共有しその中で役割を分け、互いの社会観をすり合わせていく作業を行っていきます。

次回は大人の共感と介在の観点も踏まえながら、ごっこ遊びのことを本気で考察してみようと思います。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話③~ごっこ遊び「模倣」~

ごっこ遊びは遊びの中でも有名で結構色んなサイトでも紹介されていましたがm今はそこそこ本気で遊びを考えているのでごっこ遊びの新たな可能性に触れることができるかもしれません。

はじめにごっこ遊びは
➀【模倣】模倣が始まる(生後10カ月ごろ)
➁【見立て遊び】何かの物を、自分が表現したいものに見立てる(1歳ごろ)
③【なりきり遊び】人形やフィギュアに自分を投影し、外に自己イメージを投影する(2歳ごろ)
④【ごっこ遊び】投映した自己イメージを他者と共有しようとし、持っていた世界観を変容させる(3歳以降)

の順を経てごっこ遊びとして完成されていきます。

まず模倣って何?っていうことですけど、簡潔に言うと「真似」です。誰でも知ってるわ!って思うかもしれませんがちょっと我慢してお付き合いください。 はじめに広辞苑の記載を紹介します。

〇真似

「まねること。模倣」

〇模倣

「自分でつくりだすのでなく、すでにあるものをまねならうこと。他者と類似あるいは同一の行動をとること。幼児の学習過程、社会的流行、さらには高度の文化活動など、文化的・社会的に重要な意義を持つ。」

模倣の方が学術的で、それを一般的にいうと真似するっていうんだよ、みたいな書き方になっているんですね。ここにはっきりと『幼児の学習過程に重要な意義を持つ』って記されていることがお分かりいただけると思います。

また、コトバンク内、日本大百科全書(ニッポニカ)には

〇模倣と生得性

模倣は古くから生得的な本能の一種として扱われ、たとえば社会心理学者のタルドJ. G. Tardoはこれを社会的行動の発生基盤と考えていた。優越者の行動を模倣することで、劣等者はそれとの強い情緒的結合を求めようとし、流行の現象を発生させる。地域や職業にみられる慣習は、それに従う模倣によって維持される。子が親の、年少者が年長者の行動を模して、文化が伝承され、社会化が促進される。芸術の面でも優れた先人の技法・表現を模倣する行動が創造と並んで重視されることもある。模倣を通じて、モデルと観察者との同一視identificationが説かれる。[小川 隆] 

同ページ内にはその生得性の他、習得性について詳細があります。

https://kotobank.jp/word/%E6%A8%A1%E5%80%A3%28%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6%29-1601069

もう1つ見てみましょう。これはミネルヴァ書房の『教育用語辞典』からの抜粋です。モデリングや模倣としては記載されていませんでしたが。

〇モデリング環境                     ~・・・社会学習理論の用語である。~中略~周りの環境にさまざまに関わりながら生活することによって生活知を学習していったり、他人の姿を観察してその姿(行動、意識、雰囲気)を学習していく。~以下略~

ご覧になっていただいた通りモデリング、模倣性は社会的な習慣を身に着けるために行われる生得的な学習であって、環境によって左右される。そして多くはその周囲にいる大人によって影響を受けるので、幼児期にどのようなモデルを見つけるかは重要ということなんですね。

一点注意が必要なのですが、それは必ずしも保護者がモデルにならないということです。

幼児期の模倣による生活習慣の獲得は重要→身近にいるのは保護者だから一番模倣の対象になるのは保護者→だから保護者の振る舞いが重要=子どもの育ちが悪かったら保護者の育て方が悪い。 

みたいに保護者のみの影響で考えてしまう誤解を防ぐためです。

確かに現代は、幼児期によく接するのは直接的に関わっている保護者ですけど、実際模倣しようとするのは発達上の過程の一つのプロセスであって、しかも幼児は誰を対象にするかを選びません(というか選べない)。したがって誤解を恐れずに言えば「たまたま保護者だった」ということになります。

さらに言えば「しばらくは保護者の真似をすることで生きようとするけれども、それは永続的ではなくどこかでより良いモデルと出会えばそちらにシフトする力がある。」ので、必ずしも保護者の振る舞いがその後の人生におけるすべての振る舞いを規定することはありません。

子どもがいともたやすくキャラクターに扮したり好きな歌を歌い始めるのを見れば一目瞭然ですよね。

こうした模倣性はこの先見立て遊び→なりきり遊び→ごっこ遊びへと変遷をたどるのですけど、これから先は

➀模倣は社会性を獲得するためにある生得的な学習能力

➁なりきりやごっこ遊びも社会性を身に着けるための学習(この辺はよく言われますね)

③創造力や世界を広げるための遊びという話だけでは不十分         

④仮定として模倣からスタートするごっこ遊びは単に夢を広げるためとか創造力を育むための遊びではなく、望ましい社会を構成しようとするための試行錯誤の初期段階である

⑤そのためにはアイデンティティを確立するためのなりきりが重要(社会における自己の役割認識のため)

ということを考えていこうと思います。模倣について語っていたらそれだけで結構なボリュームになってしまった。冗長にならないように気を付けなければならないですね。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話②~いないいないばあっ!「知育より優先されるべき事の発見」~

さて、これまでいないいないばあについてだらだらと述べてきましたが、今回はいよいよ「いないいないばあが知育として考えられるかどうか。」ということについて考察していこうと思います。

まずですが「いないいないばあ」は「大人が楽しそう」という大前提が無ければ成立しない、ということを改めて強調しておこうと思います。

前回の記事でも紹介したように赤ちゃんは大人の表情から自身の行動を規定します。したがって大人の働きかけが彼ら・彼女らにとってプラスとなる働きかけでなければなりません。

無表情のいないいないばあを繰り返すことは何も意味がないよ、ということです。

ところで(興味がある方は)「いないいないばあ 知能」みたいにググってみましょう。そうすると
著名(自分は存じ上げませんでしたが)な方の意見を筆頭に「いないいないばあはワーキングメモリを鍛える!」「より知能を育てる!」みたいなサイトが続くと思います。

ちなみにワーキングメモリとはある作業を遂行するために脳が一時的に保存しておくことができる記憶量のことです。広島大学のサイトが詳しく簡潔にまとめてくれているので掲載。
https://home.hiroshima-u.ac.jp/hama8/working_memory.html

いないいないばあがどのようにワーキングメモリに影響を与えているかというと
➀赤ちゃんもしくは大人の顔を隠す←「!?」ってなる瞬間
➁しばらく時間が経つ←赤ちゃんが「???ワクワク」ってなる時間
③ばってなる←「きたーーーーーーーーー!」ってなる瞬間 この➁から③の間に
「赤ちゃんは大人が、自分が期待している表情を見せてくれるかもしれない」という推論と 「こんな表情を見せてくれるだろう」というイメージの保持を行っているので 情報の保持と処理を行うワーキングメモリが鍛えられるんだという話です。

自分は脳の専門家でもないし今はあくまで遊びの観点からいないいないばあを考察しているので詳細に述べることはできませんが、ワーキングメモリに影響を及ぼす、という点では理解できますが知能の発達を促進するとは思いません。 それはですね

  • ➀いないいないばあは大人が遊ぶための遊びであり、遊ぶ感覚の共有が優先される
  • ➁ワーキングメモリに影響しているかもしれないが、日常生活以上に特出して影響しているとは考えにくい。

➁については「やらないよりはあったほうがいい。」程度にしか考えていないがゆえの結論ではあると思いますが、そんな単純に知育と結びつけない方が良いのでは?という意味です。

さて➀ですがいないいないばあは大人が遊んでいることが重要です。それに基づいて遊ぶ感覚の共有が為されていることの意味があるのです。
近年「学習には遊びが大事」ということが強調され始めました。それは同意できます。あえて加えるとすれば自分は「遊び心は大事」とし、遊び心を主軸に置いて考察しています。

ところで遊び心が生来備わっている機能だとすると、それは適切な形で引き起こされなければなりませんし、どこかのタイミングで「遊び心という内的力がある」ということを体感しなければなりません。

極端な話ですよ。周囲の大人が全員無表情で、あるいは人との接触なしで、食事や適切な環境は確保され、その中で育ったとします。恐らく能動的な動きはいずれ見られるようになるでしょう。ただしそのとき、感情表現があるかどうかというと疑問です。やはりいくらかでも感情表現をするようになるためには人との関りが、そして豊かな感情表現が行われている中での関りが重要ということになります。

遊び心も同様に、遊ぶ体感を得る中で身につけ引き起こされるものですよねきっと。
だから遊び心のない遊びは、遊びとして赤ちゃんに伝わらないし、遊び心を持たない大人がいないいないばあを実行してもそれは遊ぶ感覚を共有することにならなので遊びとして成立しないのではないかと思うのです(演技がやたらうまかったら話は別ですが)。

言い換えれば多くの大人がいないいないばあを赤ちゃんの前で行うことは自ら『自分にも遊び心はあるんだよ!だから遊びましょう!』ということを自白していることになるんですね。

 いや、とても良いことだと思います。自分もやるし。だから遊び心にそって学習してるし。だから遊びについて考えるとき、子どものとの関係性においても「大人の遊び心」はもっと表現されてしかるべき。

 もちろんただ騒ぎましょうということではなく。

知性をもって遊びを表現できるのが大人なのですから。そして実は多くの大人が自らの体験を通して実証しているということが、いないいないばあへの考察を通してお伝え出来たかと思います。

学習に遊び心が大事と語るからにはまず己が遊んで遊び心の何たるやを示し、何を学んでいるかを示しましょうということですね。

➁ですが、ワーキングメモリを鍛えるかもしれないが、日常生活以上に特出して鍛えているとは考えにくいです。


成長過程にある脳は常に多くの刺激を受け続けています。見慣れていく環境の中でいかに自分を確立させていくか懸命に生きているのですね。
その中でよく面倒を見てくれる人があらわれ生活習慣が落ち着き始めるとそこに生まれるのは「安心感」ですよね。

この安心感はこの先3歳までの体験によって著しく損なわれる危険性はありますけど、少なくとも ➀常に面倒を見てくれる人がいる ➁食事・環境が保障される ③生活が習慣化される となったら第一段階クリアなわけですよ。最低限の安全は確保されるから。

ところがまだ自分で ①ご飯を食べることはできない ②移動することはできない ので、自立のステップがここから始まるわけですよね。

すると自分の活動範囲を広げるために自発的な行動を起こし始める。この時点であらゆる脳の活動が十分に行われているのであって、さあいないいないばあで脳を鍛えましょうなんてやったところで特別な知育につながっていると考えにくいんですよね。忘れられるし。だからないよりは合った方が良い程度にしか思えない。

 というかどうして大人がやりたがるのかということに注目したら、知育以上に注目すべき事柄が見つかってしまった。

ありきたりな結論で面白くないかもしれませんが、

「いないいないばあは脳の発達より遊び心伝承の第一歩」として捉えた方がしっくりきました。

では総括

➀「いないいないばあ」は赤ちゃんをあやすための遊びではない
➁ましてや知育につながる遊びというわけでもない
③遊び心伝承の第一歩として重要
④さらに大人の「遊び心の自白のタイミング」として超重要

ということでした。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話②いないいないばあっ!~なぜあんなにも喜ぶのか~

さて、前回から「いないいないばあ」について本気で考え始め今日が2回目です。2回目は「なぜあんなにも喜ぶのか」というテーマです。

まず大前提としていないいないばあは大人がどんな表情をしているのか、ということがとても重要です。言わずもがな。例えば大人の表情が無表情だと子供は沈黙するし笑いもしないし最終的には泣き出す。
マサチューセッツ工科大学で行われた実験は有名ですね(この同後は生後4か月のようです)。

つまり正面に「自分を見て笑わせてくれる&笑ってくれる対象がいる」というのは赤ちゃんの精神的な発達に影響を及ぼしていることを証明してくれました。

ちなみにですけど、こうした表情の共感はどの発達年齢であっても常に優先されるかと言うとそうではありません。
言語がある程度理解できるようになると言語的な共感が優先される時期があります(大学の頃教育心理学で動画を見せてもらいました)。もちろん機械的な応答では共感として認識されませんけど。

とにかくいないいないばあで遊ぶためには「笑っているor楽しそうである」ということは欠かせません。

いないいないばあをするにあたって前回は月齢を5~6カ月ごろ、と記載しましたが、それはあくまでいないいないばあを楽しむことができるようになる月齢でした。

発達の月齢によっていないいないばあの楽しみ方が変化しているんですね。
生後5~6カ月は単純に目の前に楽しそうな人がいるから楽しそう!

ある時期を境に「何が出てくるか楽しみにする」ようになる。←ピアジェの理論をもとに考えると10カ月から対象の永続性を理解し始める。これと関係あるのかな?

やはり月齢によって楽しみ方が変わっているのかもしれないですね。これはちょっと泥沼にはまる予感がしてきた。

ところでいないいないばあは大体1回だと面白くないので多くの人が繰り返し「ばあ!」ってやると思うんですけど、この繰り返しって結構面白いみたいですね。
これも月齢によって若干の変化はありますけど、でもいないいないばあにとってこの「動作が繰り返される」ことの面白さは必要不可欠な気がします。
乳幼児は成長過程で繰り返しを楽しむ時期があるんですけど(動作にせよ言葉にせよ)、これはそのままいないいないばあにも当てはまることで。もちろん当然大人が面白そうにしていないと面白くないんですけどね。
ただの繰り返しではなく何が繰り返されるかが重要ということですね。


大人が遊びたいと思った感覚がそのまま共有され、しかもそこに繰り返されていることの楽しさを取り込み楽しい感覚を誘発するのがいないいないばあだということになります(なりました)。

擬音語が同じ言葉の繰り返しで構成されているのもこの繰り返されることへのどことない面白みがあるからなのでしょうね。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話②いないいないばあっ!~実は大人発の以心伝心ゲーム~

言わずと知れた「大人対赤ちゃん」の遊び。前回の鬼ごっこからの落差がすごいですけど気にしないでください。
今回のタイトルは「実は大人発の以心伝心ゲーム」と設定しましたが、ただ顔を隠してあやしているだけではなさそうだ!ということです。

いないいないばあって自分の調べた限りでは語源も始まりもはっきりしないんですよ。でも赤ちゃんと遊ぶ時にまず間違いなくやる遊びですよね。
文化として受け継がれているからやるのか、やられて楽しかった記憶が無意識に残っているからやるのか、それともやって楽しいからやるのか。

ちなみにいないいないばあを楽しめるようになるのは生後5カ月~6カ月とされているのですが、それはですね

1. 視界がぼんやりとしている
2. 徐々に人を認識できるようになってくる
3. 最も面倒を見てくれる人と、そうでない人の顔の判断がつくようになってくる
4. 最も面倒を見てくれる人の表情に合わせて感情が動くようになる(意思表示するようになる)←ココ!

4にあたる時期が生後5~6カ月が標準とされているからです。多少の前後はあります。

ところで「いないいないばあは前頭前野を刺激するため、ワーキングメモリーを鍛えるのに良い。」そうですけど、自分はよく理解できていません。それは改めて考察するとしてむしろいないいないばあの醍醐味はですね・・・。

「遊びの感覚を共有することができる。」!

これです。
赤ちゃんは他者の動きを観察して「これ誰?」とか「この人楽しそうね!」みたいなことを雰囲気から察するようになる。そして大人の側は「ほら、楽しそうでしょ?」ということを全力で伝えにかかるわけです。そして赤ちゃんが笑えば「やった!」ってなる。ここに意思の疎通がうまくいくかどうかの以心伝心ゲームみたいな要素があるのですよ。

つまり大人の意図した感情をどれだけ上手に伝えられるか、そして伝わるかどうかで遊んでいるのですね。
赤ちゃんは心躍る出来事が目の前で繰り広げられるのでキャッキャと笑うんですよね。それが期待しているから楽しいのか、瞬間的に相手の感情を理解しようとしている力が働いているから楽しいのかについてはちょっと議論したいところでもある。

というわけで「なぜいないいないばあをやるのか」を考えたときに、赤ちゃんの側は特に「この遊び楽しい!」って考えてるわけではないし大人の側もそこを想定してやるわけではない。でもほとんどの人がやる。

やはりこれは大人側の赤ちゃんと遊びたい心理が見事に赤ちゃんの心理にマッチした結果なんじゃないかと思うのです。
はっきり言うと「大人が赤ちゃんと遊びたいからいないいないばあをする。」ってことです。
だから何だろう?ってなりますけど、今回はとにかく遊びについて本気で考えてみることが主旨なので結論はあまり期待しないでください。
ただ敢えて結論付けるなら、「いないいないばあ」は子供をあやすために編み出した大人の遊びだよってことでしょうか。いないいないばあに限らず赤ちゃんをあやすのは大体遊びか。

そして次回は「なぜあんなにも喜ぶのか」について、まとめていこうと思います。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話~鬼ごっこ「とりあえずできるベーシックな遊び」~

あるメンバーと話をしていて「かくれんぼは最強の遊びだと思う。」という話をしていたら思いのほか盛り上がったので
、遊びについてわりと本気で考えてみることにしました。
ただ遊びについて考察するだけなので遊びの重要性を説くとか遊びが教育的にどう効果があるか、ということではありません(それは面白くないから)。

では、鬼ごっこから始めます。

出だしから「鬼ごっこかよ、普通だな。」みたいな声が聞こえてきそうですけど、実際鬼ごっこは話としてはそこまで面白くない。

でもなぜ鬼ごっこが最初に来たのかというととりあえずベーシックな遊びだし一番汎用性が高い遊びなんですよね。
っていうか、遊びの多くはこの鬼ごっこに通ずる、みたいなところは結構ある。

さらにこの「とりあえず」みたいな遊びって結構重要なんだと思うのです。
ただ2人いれば成立しますからね(つまらないけど)。1対多数が一般的。

さて、鬼ごっこの歴史を少したどってみることにしましょう。

鬼遊び,オニゴトともいい,子供の集団遊技の一つ。鬼追い,鬼平祭 (鬼が出現し大いに暴れたあと圧伏される) などの神事芸能の模倣から一般化したものである。1人の子供が目隠しをして鬼になり,その他は逃げ手として鬼に捕えられないように逃げまわる。「鬼さんこちら,手の鳴るほうへ」とか「鬼のいない間に洗濯しましょ」などと,鬼をからかう言葉を言ったりする。
(https://kotobank.jp/word/%E9%AC%BC%E3%81%94%E3%81%A3%E3%81%93-40854)

また、
「人間生活を脅かす存在としての<鬼>を追い払う追儺(ついな)などの祭事が、子どもの遊戯として伝承されたものと考えられる。」
とあります。
もとは鬼やらいともいう鬼払いの儀式でもあるそうで、中国から平安時代に伝わってきたと考えられています。

(同上)
また、「鬼事」という五穀豊穣を祝う宮中行事の儀式として行われていたとか。

いずれも「大人の儀式発」ですね。

でも本来追いかけたい衝動と追いかけられたい衝動って大人になってから芽生えるものではなく、子どもの頃に一般的にみられる行動の源泉だと思うんですよね。好奇心でさえこれ。

ってことは「鬼ごっこ」という名称の由来ではあり得ても、遊びとしての鬼ごっこの起源となりうるかと考えたときに疑問が残りました。
現に海外にも鬼ごっこに似た遊びは数多く存在しているようです(英語ではTagというらしい)。
だから遊びが儀式に転じたんでしょうね。

で、繰り返しになりますけど「子どもって素晴らしいよね!」ってことを言いたいのではないし「大人になるためには遊びが必要!」ということを主張したいわけではない。

鬼ごっこってルールが豊富にあるんですよ。思いつくだけで
1. 普通の鬼ごっこ
2. 氷鬼(タッチされたら凍って動けなくなる)
3. 増やし鬼(タッチされたら新しい鬼となる)
4. 高鬼(高いところにいる間は鬼はタッチできない)
5. ケイドロ(もはや別物だけど一応鬼ごっこが原型)
6. つなぎ鬼(タッチされたら手をつないで鬼になる)
7. 目隠し鬼(鬼が目隠ししている)

多分他にもローカルルールとかあったりバリアはったりでタッチしたのにわけわからないルールで「今のタッチじゃないし!」みたいになって喧嘩したりするんだけど、とにかく原理が「逃げる」「追いかける」だからあとはいくらでも変えられるんですよね。

それぞれの起源を追いかけるのはきっと困難なのですけど、こうした遊びもすべてが(仮に鬼ごっこの名称は貴族発祥だったとしても)大人から誕生したはずはないと思うのです。

 

ちなみにこうした鬼ごっこの多様性はブリューゲルの「子どもの遊戯」という絵にも描かれているようです。


(https://www.musey.net/3786)

 

最近だとスポーツとしての鬼ごっこも誕生しているので大人でさえ楽しもうと思えば楽しむことができる。
いずれにせよアイディア1つでルールをいくらでも変化させられるのも鬼ごっこが長年遊ばれている特徴の1つなのだと思います。

でも鬼ごっこって身体的な強弱に左右されるしいつまでも「鬼」でい続けるのって結構しんどくありませんでした?たいてい
鬼ごっこが終了するのはご飯の時間になるかチャイムが鳴るかといった時間制限があった場合、そして鬼が挫折するか鬼が捕まえるまでに時間がかかりすぎて飽きるパターン。

鬼って運悪く当たれば容赦なく挫折感を味わうんですよね。逃げる側は多数なので鬼が来なければ「まだ~?」みたいなことを言ってけらけら笑ってるだけでも楽しいし、それに飽きたら「もうやめようぜ~。」って言って辞められる。
鬼って投げ出しても悪者。捕まえきれなくても悪者。中途半端に何人か捕まえて疲労困憊したときも結局捕まえられなくて「あ~あ。」ってなる。

鬼って損な役回りだと思います。
考えてみればそういう損な役回りにある鬼がもっと面白くなるようにということで新しいルールが考案されたのかもしれないですね。
鬼が平等に戦おうとする。増やし鬼とかその典型だと思います。この辺りはそれを見てかわいそうだと思った大人の優しさがあったのかもしれません。

さて、鬼ごっこの1番の特徴はシンプルな遊びの形態である、ということでした。

本当に頭を使う必要がないんですよね。追いかけられるのが楽しい、追いかけるのが楽しいということの延長にあるだけなので。成長にとって鬼ごっこが必要かと言われればそれははっきり言っていらないんじゃいかと思います(暴言)。っていうくらいシンプルで融通が利くってことです。

というかそもそも「この遊びは絶対必要でしょ。」という遊び自体知らないのであったら教えてほしい。

そうはいっても鬼ごっこは引き続き代表的な遊びとして遊ばれていくだろうし、やっぱり楽しいんでしょうね。

学校で「一番盛り上がる鬼ごっことは何か!?」みたいな議論をしたら盛り上がると思う。やるなら大人の事情介入なしにして。いざこざありきで。

では総括。
① 鬼ごっこはそんなに大した遊びじゃない
② 遊びが儀式に転じたパターン
③「追いかける」「追いかけられる」が最大の魅力
③ シンプルがゆえに汎用性が高い
④ ルールを変えたのは鬼に対する人情
⑤ 議題にちょうど良い。

以上、鬼ごっこでした。
初回なので全部記載しました。次回からはもっと小分けにします。

新年のご挨拶

菅原道真公を祀る、亀戸天神社にて↓

新年明けましておめでとうございます。
本年も皆様のご多幸をお祈りします。

今年の目標は体制を構築することですが、一方で保護者の方々と理解を共にしていきたい、また、そのために必要な情報を発信し続けていくこととしています。

これらはこうゆう舎の思想、方法を伝え、提案することのみならず、保護者の方々と、そして関係者の方々と常に対話し続けることで生まれるものと考えております。

こうゆう舎の教育は、常にこうした対話の中からともにお子様の成長をサポートすることを大事にしています。

今後とも貴重なご意見、アドバイス等を宜しくお願い致します。

それでは2019年も皆様にとって実り多き一年となりますよう、本年も宜しくお願い申し上げます。