遊びがなんとなくありがたく思えてくる話③~ごっこ遊び「自分再発見、なりきり」~

昨日は授業が2件ありうち1件が受験対策、その後事務作業を行いつつなりきりについて書いていたらそのまま精魂尽き果てました。

気を引き締め直してごっこ遊びのステップ3「なりきり」について考察してみようと思います。

➀なりきりは完全に「その人」となり「それ」となる

まずはじめに「模倣となりきりはどう違うのか」ということなのですが、模倣はあくまで「まねて習う」ことです。振る舞いを真似ることはあっても同化するわけではないのですね。

一方なりきるというのは「自分を変化させて別の存在となる」ことです。
話し方、動き方といった行動のみならず感情の動きや考え、そしてそこに見られる人格を取り込み自分とは違う他者になることを指します。

➁なりきり遊びは自分再構成の段階

なりきることがどうして社会構成のための試行錯誤につながるかというと、そもそも模倣することで社会的な振る舞いをゲットしようとしたところに端を欲します。

続いて見立てることを行って自分なりに社会を(仮に大人が夢の世界と言おうと)構築しようとします。

どんな社会が良いのか、世界とはこういうものだろうと目星をつけて「じゃあその世界を得るためにはこれが必要だ!」みたいになったとき、外の世界の対象を自分に取り入れなければならない対象として判断された場合に、なりきることで自分に融合させようとしているのですね。

③なぜごっこ遊びの前段階に置かれるのか

なぜなりきりがごっこ遊びに優先するかと言うとですね。

なりきりは1人で行われるけど、ごっこ遊びは人形やその他に他者を投影していたとしても、また複数で行っていたとしても他者が存在するからです。

例えばおままごとはより現実に近いのですが、現実とはちょっと違う。

中には現実を投影させすぎてて保護者が恥をかくことも大いにありますけど、でもそのときの幼児って自分が作り上げた世界の中で自分を変容させ、もはや「それは誰かを演じている」を通り越して「その人」なのです。

それを「子供の発想ってかわいい。」という言葉で片づけるのはもったいない。

なりきりやごっこ遊びは「社会性を身に着けるための訓練」とか「創造性を育くむ重要な時期」という言葉で終わらせてしまうのではなく、彼らがなりきりやごっこ遊びを通じていかに社会を、世界を変容させているかという観点から見た方が良いのですよ。

世界の中心はあくまで彼ら、彼女らなのですから。

④なりきり遊びが働きかける4つの感情

なりきりが行われるのは感情について働きかけられたときで、かつ取り入れなければならないと判断されたときです。

大まかに以下の4つのいずれかに働きかけられたときになりきりが行われます。

1.安心感に働きかけられたとき(生存、安定)

2.恐怖に働きかけられたとき(死、危険)

3.好奇心に働きかけられたとき(成長、まい進)

4.悲哀に働きかけられたとき(停滞、衰退)

「最近の子は大人びたことをいうのね。」なんてありますけど、これは子どもを取りまく環境が変化したから吸収する内容も変わったわけですよ。キッチンや大人の会話が身近になったのはここ最近の話ですからね。

最近の子の成長が早いのではなく、元々持っていた学習能力がより生活体験や感情と結びついて発揮されていると捉えた方が良いのではと思います。

⑤なりきり遊びからごっこ遊びへ

さて、いよいよごっこ遊びに近づいてきましたね。

なりきりを経て他者の視点を自分の中に置き「世の中ってこんな感じ!」みたいなことを身に着けた乳幼児たちは、それを今度は現実の他者とぶつけてみて試行錯誤していきます。このとき1つのシチュエーションを共有しその中で役割を分け、互いの社会観をすり合わせていく作業を行っていきます。

次回は大人の共感と介在の観点も踏まえながら、ごっこ遊びのことを本気で考察してみようと思います。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話②いないいないばあっ!~なぜあんなにも喜ぶのか~

さて、前回から「いないいないばあ」について本気で考え始め今日が2回目です。2回目は「なぜあんなにも喜ぶのか」というテーマです。

まず大前提としていないいないばあは大人がどんな表情をしているのか、ということがとても重要です。言わずもがな。例えば大人の表情が無表情だと子供は沈黙するし笑いもしないし最終的には泣き出す。
マサチューセッツ工科大学で行われた実験は有名ですね(この同後は生後4か月のようです)。

つまり正面に「自分を見て笑わせてくれる&笑ってくれる対象がいる」というのは赤ちゃんの精神的な発達に影響を及ぼしていることを証明してくれました。

ちなみにですけど、こうした表情の共感はどの発達年齢であっても常に優先されるかと言うとそうではありません。
言語がある程度理解できるようになると言語的な共感が優先される時期があります(大学の頃教育心理学で動画を見せてもらいました)。もちろん機械的な応答では共感として認識されませんけど。

とにかくいないいないばあで遊ぶためには「笑っているor楽しそうである」ということは欠かせません。

いないいないばあをするにあたって前回は月齢を5~6カ月ごろ、と記載しましたが、それはあくまでいないいないばあを楽しむことができるようになる月齢でした。

発達の月齢によっていないいないばあの楽しみ方が変化しているんですね。
生後5~6カ月は単純に目の前に楽しそうな人がいるから楽しそう!

ある時期を境に「何が出てくるか楽しみにする」ようになる。←ピアジェの理論をもとに考えると10カ月から対象の永続性を理解し始める。これと関係あるのかな?

やはり月齢によって楽しみ方が変わっているのかもしれないですね。これはちょっと泥沼にはまる予感がしてきた。

ところでいないいないばあは大体1回だと面白くないので多くの人が繰り返し「ばあ!」ってやると思うんですけど、この繰り返しって結構面白いみたいですね。
これも月齢によって若干の変化はありますけど、でもいないいないばあにとってこの「動作が繰り返される」ことの面白さは必要不可欠な気がします。
乳幼児は成長過程で繰り返しを楽しむ時期があるんですけど(動作にせよ言葉にせよ)、これはそのままいないいないばあにも当てはまることで。もちろん当然大人が面白そうにしていないと面白くないんですけどね。
ただの繰り返しではなく何が繰り返されるかが重要ということですね。


大人が遊びたいと思った感覚がそのまま共有され、しかもそこに繰り返されていることの楽しさを取り込み楽しい感覚を誘発するのがいないいないばあだということになります(なりました)。

擬音語が同じ言葉の繰り返しで構成されているのもこの繰り返されることへのどことない面白みがあるからなのでしょうね。

遊びがなんとなくありがたく思えてくる話②いないいないばあっ!~実は大人発の以心伝心ゲーム~

言わずと知れた「大人対赤ちゃん」の遊び。前回の鬼ごっこからの落差がすごいですけど気にしないでください。
今回のタイトルは「実は大人発の以心伝心ゲーム」と設定しましたが、ただ顔を隠してあやしているだけではなさそうだ!ということです。

いないいないばあって自分の調べた限りでは語源も始まりもはっきりしないんですよ。でも赤ちゃんと遊ぶ時にまず間違いなくやる遊びですよね。
文化として受け継がれているからやるのか、やられて楽しかった記憶が無意識に残っているからやるのか、それともやって楽しいからやるのか。

ちなみにいないいないばあを楽しめるようになるのは生後5カ月~6カ月とされているのですが、それはですね

1. 視界がぼんやりとしている
2. 徐々に人を認識できるようになってくる
3. 最も面倒を見てくれる人と、そうでない人の顔の判断がつくようになってくる
4. 最も面倒を見てくれる人の表情に合わせて感情が動くようになる(意思表示するようになる)←ココ!

4にあたる時期が生後5~6カ月が標準とされているからです。多少の前後はあります。

ところで「いないいないばあは前頭前野を刺激するため、ワーキングメモリーを鍛えるのに良い。」そうですけど、自分はよく理解できていません。それは改めて考察するとしてむしろいないいないばあの醍醐味はですね・・・。

「遊びの感覚を共有することができる。」!

これです。
赤ちゃんは他者の動きを観察して「これ誰?」とか「この人楽しそうね!」みたいなことを雰囲気から察するようになる。そして大人の側は「ほら、楽しそうでしょ?」ということを全力で伝えにかかるわけです。そして赤ちゃんが笑えば「やった!」ってなる。ここに意思の疎通がうまくいくかどうかの以心伝心ゲームみたいな要素があるのですよ。

つまり大人の意図した感情をどれだけ上手に伝えられるか、そして伝わるかどうかで遊んでいるのですね。
赤ちゃんは心躍る出来事が目の前で繰り広げられるのでキャッキャと笑うんですよね。それが期待しているから楽しいのか、瞬間的に相手の感情を理解しようとしている力が働いているから楽しいのかについてはちょっと議論したいところでもある。

というわけで「なぜいないいないばあをやるのか」を考えたときに、赤ちゃんの側は特に「この遊び楽しい!」って考えてるわけではないし大人の側もそこを想定してやるわけではない。でもほとんどの人がやる。

やはりこれは大人側の赤ちゃんと遊びたい心理が見事に赤ちゃんの心理にマッチした結果なんじゃないかと思うのです。
はっきり言うと「大人が赤ちゃんと遊びたいからいないいないばあをする。」ってことです。
だから何だろう?ってなりますけど、今回はとにかく遊びについて本気で考えてみることが主旨なので結論はあまり期待しないでください。
ただ敢えて結論付けるなら、「いないいないばあ」は子供をあやすために編み出した大人の遊びだよってことでしょうか。いないいないばあに限らず赤ちゃんをあやすのは大体遊びか。

そして次回は「なぜあんなにも喜ぶのか」について、まとめていこうと思います。

新年のご挨拶

菅原道真公を祀る、亀戸天神社にて↓

新年明けましておめでとうございます。
本年も皆様のご多幸をお祈りします。

今年の目標は体制を構築することですが、一方で保護者の方々と理解を共にしていきたい、また、そのために必要な情報を発信し続けていくこととしています。

これらはこうゆう舎の思想、方法を伝え、提案することのみならず、保護者の方々と、そして関係者の方々と常に対話し続けることで生まれるものと考えております。

こうゆう舎の教育は、常にこうした対話の中からともにお子様の成長をサポートすることを大事にしています。

今後とも貴重なご意見、アドバイス等を宜しくお願い致します。

それでは2019年も皆様にとって実り多き一年となりますよう、本年も宜しくお願い申し上げます。

清澄庭園

東京都の九庭園の1つ。

清澄庭園へ行ってまいりました。
https://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index033.html

清澄庭園入口から臨める泉水は、色づいた紅葉と緑の木々が綺麗に映し出されています。


磯渡りと呼ばれる石の橋のような上を渡るのですが、周りを鯉やカモが優雅に泳いでいます。

ところで松尾芭蕉の句碑が清澄庭園にはあるのですが、

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

なんだか懐かしい響きですが即座に思い出せず、句碑を見て「ああそういえば。」という状態でした。

しかし教科書で読むのと違ったのは、その情景がありありと思い浮かび、静寂に響く水の音を想像できたことでしょうか。

イメージを重ね思いを重ねるとはそういうことなのでしょうか。

冬の気配がいっそう、その気分をかきたてたのかもしれません。

独特の感性を持っていることへの気づき

「先生、もうすっかり日が短くなりましたね。」

11月はじめ、ある生徒が私に向かって放った言葉です。

なんの変哲もないありふれた言葉です。

恐らく多くの人が会話の足しに使うであろう素朴なこの台詞。どのような場面で使われることを想像するでしょうか。

多くの場合、この台詞は日が傾きかける夕方からすっかり日が落ちてしまって薄暗くなったときに使うでしょう。

「こんなに日が短くなった。すっかり真っ暗だ。」
というように。

でも大真面目に正午過ぎに「すっかり日が短くなりましたね。」と言われたら?

どのような反応を示すでしょうか。
きっと「まだ昼間なのに。」と思わず口にしてしまったり、口には出さずとも腹の中で「まだ明るいのに。」と思ったりしませんか?

でも大真面目なのです。その瞬間、彼なりの独特の感性が働いたのです!なんてすごい!
これだから彼らの発見は面白い。

それではここからが本題です。

まずはじめに「どのようにしてその感性が働いたか」ということを明らかにしていくことが私にとって重要でした(そうでなければやはり『まだ昼間だよ!』と思わず叫んだでしょう)。

私は彼に対して物の捉え方の違いがあるということを再三伝えてきました。これは言葉に表現しづらいのですが、いわゆる論理的な捉え方ではなく表象イメージをイメージとして捉え、そのまま表す力に長けているのです。

それは私にはまったく想像できない世界なのですが。

とはいえ彼の表現活動を見ていると、あきらかにイメージを捉えそれを書き表すことの能力があることが分かります。

このことと関連しているか定かではありませんが、元々彼は人工的な光に弱く自然光を好みます。
だから学習中もなるべくなら自然光を望むのです。人工的な光が全くダメなのではありません。

でも自然光の中で生活している状態が最も彼にとって良い状態なのだ、ということをこれまで何度も確認してきました(夜はさすがに蛍光灯です)。

こうした背景を理解した上で先ほどの「すっかり日が短くなりましたね。」という言葉を振り返ってみると、彼にとって日中の光の変化は私たちが捉えるよりずっと大きい変化となって捉えられているのだ、ということが分かります。

今回の彼の発言はそうした特性によって、意外な言葉を発するとともに、独特の感性を持っているということを教えてくれました。

インゲン・シュナイダー先生のエクストラレッスンの講座に参加しました。

10/6 インゲン・シュナイダー先生のエクストラレッスンの講座に参加しました。

エクストラレッスンとは、ルドルフ・シュタイナーの人智学による深い洞察がベースとなり、動きを中心としたエクササイズを行うことで、困難の根底にある原因に働きかけるものです。

2016年の奈良で行われた世界大会に参加した時には、まだ概要しか掴めなかったのだけど、今回のお話は自分が実際に多くの子どもたちとセッションする中で見えてきたものを裏付け、示唆を与えてくれる内容でした。

12感覚の話が中心でしたが、発達の問題の中でよく言われるコミュニケーションや社会性というのは、実は、触覚や生命感覚、運動感覚、平衡感覚などの下位感覚と呼ばれるものと密接に関係しているということ。このことは、実際に子どもに関わる中で確信をもっていることの一つです。

感覚は、お母さんと子どもでは全く違っている場合も多くて、固有感覚が弱いから、ぎゅーって力いっぱい抱きしめてね、と言うと、びっくりされたりします。(シュタイナーでの運動感覚は、感覚統合で言う固有感覚とほぼ同じ)

でも、感覚統合の世界ではあまり言われていないけれど、シュタイナーの12感覚の中にある生命感覚は、実はとても大切な感覚です。

自分が心地よいと思える状態をこの生命感覚は作り出しています。これが、他人の考えを理解する上でとても重要。
意外と見過ごされている、生活リズムや食事、睡眠、環境をもう一度見直してみると、子どもも不思議と落ち着いてきますよ。

今回は、半日しか出られなかったのですが、もっと学びたかったなぁ。

(筆)小木曽よりこ

文明開化を支えた財閥の力~旧岩崎邸~

 

やってまいりました、旧岩崎邸
(東京都台東区)

ふらっと気ままに立ち寄っただけなのに思いのほか楽しむことができて驚きです都心の中で一息つくには絶好のスポット。

旧岩崎邸は東京都台東区にある洋館。足を運んだ時には工事中で入り口が残念なことに。それでも横の窓からのぞかせるランプが綺麗に光っていてですね。岩崎邸の目のように思えて怖い印象もありました。

建築家のJ・コンドルによってつくられた建物で、ジャコビアン様式の装飾やルネサンス様式のデザインを取り入れているようです。

そうはいってもどこがジャコビアンでどこがルネサンスで、どこがイスラムなのかを判断する知識はなく、いつか専門家に聞いて回りたいところ。

一番楽しかったのは階段をのぼって右手にある柱。
これがたまらず美しい姿をしているのです。なだらかにふくらむんだけれど、ふくらんでいるようには見えない。それでいて存在感がある柱だったのでついみとれてしまいました。

岩崎邸には洋館と和館があって、洋館は主に来賓客用。和館は岩崎家の住居として使用されていたようです。
和室は書院造。茶室もあってそこではお茶をいただくことができるのですが今回は金唐革紙に目を惹かれたのでそちらのしおりを購入。

金唐革紙は和紙に金箔で凹凸の模様をつくり、壁紙などにも使用されていた高級和紙。
岩崎邸では撞球室にも施されており、実際に使用されてた金唐和紙がしおりとなって販売されています。
使うにつれて柔らかくなり、いっそう革のような魅力が引き立つそうなので購入しました。

訪れた日が日曜日だった為、館内は写真撮影不可。平日に訪れてみようと思います。
そしてこれを機に都立9庭園を制覇しに回ろうと決心したのでした。

(筆)水野のりあき