遊びがなんとなくありがたく思えてくる話③~ごっこ遊びと個性誕生~

  • ごっこ遊びはそれぞれが構築した世界観のすり合わせ
  • お披露目の場としてのごっこ遊び
  • 上下関係はごっこ遊びを通して強化されるべきかどうか
  • ごっこ遊びと個性の誕生

ごっこ遊びはそれぞれが構築した世界観のすり合わせ

ごっこ遊びに至るまでを力説してまいりましたが、いよいよごっこ遊びも最終章です。

ひとまず前回のおさらいをすると、なりきりとごっこ遊びには違いがあります。

なりきりは基本的に1人が誰かになることです。したがってなりきった様が他者から見てどうであるとかこうであるとか、そういったことがないんですよね。

一方でごっこ遊びは他者がいないと成立しません。

このときの他者とは人に限りません。例えば動物(ペット)を友達に見立てて遊んだり人形を悪者に見立てたりと、要は自分が演じている誰かの他に、世界を持つ誰か(何か)がいれば良いのです。

これが人間同士であれば、ごっこ遊びの場は「僕の作った世界とあなたの作った世界と合わせてみようね。」ということを実践する場になるんですね。

あ、ちなみにごっこ遊びを人形やおもちゃで延々と続けられる子たちの頭の中は、常にその子の思惑通りではないと思います。

むしろその逆で「自ら逆境や反発、『こうしたら幸せなのに』という状況からの逸脱」を望むので延々と続けられるのではないか、と思います。

男の子がわかりやすいかもしれませんのでパターンを2つに分けてみます。

<パターン1>ゴール思考型

シンプルに「ヒーローになる!」という目的がはっきりしているので、ヒーローになるための困難をあまり想定しません。したがって目的が達成されれば終了するので人形などを使った遊びは向かないように思います。むしろ何度もヒーローになる感覚を得るためにごっこ遊びを繰り返すかもしれません。

<パターン2>ストーリー思考型

反対に「ヒーローになりたいけど・・・」みたいな子だったら、「自分はヒーローの器じゃない。」とか「ヒーローってこんなのじゃないよ!」みたいに行ったり来たりするのでストーリーがスムーズに運びません。だから人形などを使って遊んでいても二転三転が当たり前なので飽きないのではないかと考えています。その代わり自分が納得するエンディングというのが分からないのでごっこ遊びに終わりが見えません。

(皆さんはどちらですか?)

お披露目の場としてのごっこ遊び

こうした視点も子どもに対するアプローチを変えるために必要な視点ではあると思いますが、どちらであってもごっこ遊びはそれまで自分が構築してきた世界のお披露目の場であり、それを擦りあわせることによって自分の世界を新しく再構築しようとします。

するとごっこ遊びにとって「互いの世界を接触させて融合させていこうとする試行錯誤」は必要不可欠なので、安易に単一の世界に持っていくのはNGになるのですね。一方には自己の世界が正しいと思わせ、一方には自己の世界の失敗を認めさせることになるから。もちろん暴力はNGですが、これについても安易に「たたいたから悪い!」と決めつけてはならない理由がここにありました(発見)。

上下関係はごっこ遊びを通して強化されるべきかどうか

ちょっと話がそれますが、ごっこ遊びは他者が存在するのでこの時「子供同士の間で上下関係が発生する」ことになります。出生時期、体格差、言語活動量、表情など、上下関係を生み出す要因は様々なので一概に「こうである」ということは難しいのですが、ごっこ遊びに限らず遊びにおいて上下関係があらわれるのは自然なことかなと思います。ヒーローになりたい子が「僕がヒーローになる!」と発言し、体格が良く言葉の数も多かったら大体他の子が怖気づいてしまいますからね。

ごっこ遊びを通じて上下関係は強化されるべきではない、と思いますが、これまでの理屈からすると単に「みんな平等だから!」というのも彼らにとっては不自然な話なので、上下関係をつけるなら良い結末に導くよう働きかけるべきだと思います。

良い結末とは何か。「みんな仲良し。」ではなくて「あなたはヒーローになったのだから、ヒーローとして果たすべき務めがある。」「悪者の役を引き受けてくれたあなたは影のヒーローだ。次は本物のヒーローの番だね。」といったように(大人のセンスが問われる)。

ここまでシンプルではないと思いますが、ごっこ遊びは他者との世界観のすり合わせの場であると考えれば、大人の知恵が働きかけるのはごっこ遊びを同質にするようにではなく、ごっこ遊びを通してそれぞれが演じた役割に対して肯定的、そして自律的に声掛けを行うことでしょう。

ここに「大人の共感した振る舞い」ということが生まれてくると思うんですけど、両者の世界について「Win-Win」の状況に持ち込めるかというのはやはり重要なんですよね。その前提として両者の世界を認めることから始めなければならない。その上で2人がそれぞれに試行錯誤して作り上げた社会観を融合させる。

これ、大人の世界でいうところの「他者理解」ということですよね。

彼らは彼らなりの世界を、社会構築しようとしているのであって、その世界がどのような世界か、どのような世界になっていくのかを観察してみる。これはとても面白いと思います。


ごっこ遊びと個性の誕生

 さて、他者がそこに存在するようになったということは別々の人格を持った者同士が、それぞれの世界観を融合させていく力が生まれます。

 このときはじめて個性という観念が生まれんですね。なぜそれが個性につながるかというと、個性とは他者の存在と相対的に見たときに初めて誕生するものだからです。

対大人に見せていた表情とは違った表情を見せるということは、大人が客観的に子どもが社会に対してどのようにアプローチしているのかを見ることになります。彼らはそれぞれが構築した世界をすり合わせているので、そのときおのずとこれまでに培ってきた思考、方法、関りを表現することになります。これって、個性ですよね。

 ただし常にその子の本来の姿が発揮されているわけではありません。上下関係によって抑圧されることがあるからですね。だから一場面を切り取って「こういう子だ!」と決めつけることはできないけど、複数の関係の在り方を眺めれば次第に見えてくるのではないか、と思います。

単にその子だけを見ずに、複数の関係の中からその子を見ることができるごっこ遊びはその子が個性を発揮する場としても、その子の内的力と外的力との差に気づくという点でも最良の遊びなんじゃないかと思うのです。そうするとごっこ遊びがただならぬ可能性を秘めているということに気づきました(部分的にごっこ遊びじゃなくても良さそうですね)。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です