個性とはその人の持つエピソードのことだ

≪個性をエピソードに置き換えてみる≫
個性が大事だ!って叫ばれて久しいのですけれど、実際個性が大事だけどその個性が漠然としていて良く分からなったのでずっともやもやしていましたし、それがはっきりするまで「個性が大事!」だなんて言ってこなかったんです。同じように「人それぞれ」も、「そんなん分かってるわ!その先が知りたいんだ!」と反抗してきたので相手にされなかったのですが(笑)

しかし自分が関わる上で大事にしてきたことはすべてその子の持つ、もしくはその人の持つエピソードだったということが分かってきました。これは思い出を共有するということではなく、少なくとも幼いころからのエピソードがあって、そのエピソードに沿って理解すると個人という存在がくっきりしてくるのです。

≪エピソードをたどる前はみんな同じに見える≫
エピソードというと長い歴史のような印象を受けますがそんなことはありません。昨日のこと、1週間前のこと、さらにさかのぼって1カ月前のことなど、遠い過去ばかりではありません。だから3歳、4歳だろうと立派なエピソードを持っているということになります。
このエピソードを探るということは自然と成育歴や発達特性、興味関心に目を向けることになりますから、そのエピソードを受け止めるということはその子を受け止めることにつながります。
そしてここに1つの個性が生まれます。だから躍起になってその子の興味関心を探ったり引き出したりしようとするより、このエピソードを振り返ってあげた方が実は個性を尊重することにつながる、ということになります。
そして発見したエピソードに基づいて居場所を作ったり、役割を作ったり、方法を提案したり、という流れが生まれます。これが個性の尊重ということなんだと思います。

だから学校でも塾でも施設でも、良くも悪くもよほどの天性を与えられていない限りは最初はみんな同じに見えるんです。そしてそれは何も不思議なことではありません。重要なのは同じように見える個々人をどれだけ個体化していくか、ということですから。

≪エピソードの否定は人生の否定である≫
しかし中にはこのエピソードがまるで見えづらい子がいる。そして見えづらい子ほど何か困難な環境にいる可能性が高い。
さらに年齢が上がると、このエピソードを本人が意図的に隠したりエピソードを変えてしまったりすることがある。すると容易にエピソードを探ることはできないし、「気軽に話して。」といったところで簡単には口を開いてくれません。

なぜでしょうか。

これは大人になればなるほどより強固になる「エピソードを否定されることへの恐怖」があるからです。
そりゃそうです。エピソードを否定されるということはそれまでの人生を否定されることと一緒ですから。そしてこの恐怖は大人になればなるほど防衛強化されますが、小学生であっても否定されたくない点は一緒です。
エピソードが開かれるまでに時間を要するのはこの恐怖があるからなのだと思います。そしてその恐怖は、エピソードが恐怖に支配されていた期間や強度に比例するのでは、と考えています。
だからエピソードが語られたときには慎重に、かつ話が進むように、耳を傾けてあげてほしいと思います。

≪結論≫
個性につまづいたらぜひその子のエピソードを振り返ってみてください。知っているようで知らない、豊かな個性が見えてくると思います。

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