その見方はレッテル?それとも理解の一歩?

頻繁にアタッチメントについてや発達にまつわる話をしているとまるで話している自身が他者を「区別している」ように感じることがあります。しかもこの区別が相手を理解しようとする積極的な意味ではなく、区別することによって境界をひくように感じられるから引け目を感じてしまいます。現に私の周囲にも発言をためらうことが多い方もいらっしゃいます。

こうした障害や発達にまつわる名前は元々が医学用語であり心理学用語であるため、気づかぬうちに医学、心理学が絡んでいるように感じられ、しかも壁として感じられることに支援者としての葛藤は生まれるように思います。

これは使用される文脈によって解釈が変わるため一様に「そんなに発言に戸惑う言葉じゃない。」とは言えませんが、少なくとも他者を知るために重要な要素だと私は捉えています。

日常私たちは無意識のうちに他者を「○○はこういう人」と区別しています。次第に理解が進むにつれ慣れが生じ、気づかないうちに良好な関係を保とうとします。 ただ、こうした良好な関係を保ちにくい関係性があることも事実で、支援者の多くはこうした人間関係に身を投じることとなります。

このとき「相手の理解しづらい性格」を暗黙のうちに解消しようとすると、距離を置くとか、かえって双方のストレスとなることもあります。しかもこうした性格は大勢から理解されづらい環境にあったため、次第に孤立感を覚えるのはこうした「理解しづらい性格」を抱えた人たちでした。

しかし、今ではそれぞれの性格に対して器質の傾向や機能の不均衡が関わっていると考えられ、名前こそつけられるものの理解が進んだことも確かです。

そのため障がい名や器質についてはむしろ相手を知るためによく考えるべきことで、排他的に扱われるべきではないと考えています。

もちろん、分別なく多用すべきではありません。このときの判断や表現の仕方については様々でしょう。最近では「特性」と呼んで解釈しているのをよく耳にします。 言葉一つについてこれだけのことを考えるなんて煩わしいと思うかもしれませんが、こうして1つ1つ考えてみると案外面白い発見があるものです。特に自分が意識的に話せるようになるためにはこのプロセスは欠かせません。

 

さて、講座ではこうした細かい点にまで意識を向けれるよう内容を組み立てていきます。

ぜひお越しください。知らないうちに作り出していた壁に気づくことができます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です